比較的高度に発達した『デス・ヘイト』論について
純粋な『デス・ヘイト』については「安楽死を行う際に厳密な審査がある」という反論が可能である。
しかし一部の安楽死合法化国家に見られると主張する『ザル審査』、つまり『厳密な審査が行われていない』ことを盾に安楽死を認めない勢力が存在する。本項では、それに対する対抗策を考える。各項目は独立して存在する。
1.制度の運用上の不備に関して我々が責任を負うべきなのか、という反論
我々が設計し提案した安楽死制度においては、厳密な審査を前提としているが、一部の運用主体がその『厳密な審査』を骨抜きにした場合、その責任や制度の妥当性自体を問うのは筋が違うのではないか。一部の運用主体による『骨抜き』の妥当性こそが問われるべきであり、全体の設計に異議を唱える論拠としては不足なのではないか。
2.『骨抜きにされた制度』こそ、国家、国民の選挙によって選ばれた代表の意思として正しいのではないか、という提案
我々が設計し提案した安楽死制度においての『厳密な審査』は、国家が対象者を選択する際にそのかなりの部分がなされていて、その正当性は大多数の国民による付託によるものであり、正当なものではないか、という提案。
これは『デス・ヘイト』論者の指摘する『審査の不足』を、国家に肩代わりさせ、その正当性を民主主義に持っていくものである。
3.無視
この『発達したデス・ヘイト論』を黙殺し、一切の議論を放棄する。なぜなら、『意思が曖昧であるとする人間の死を選択する権利』というリソースに対して完全に競合し、敵対関係にあるため、無駄に終わる議論を放棄するのが効率的だからである。この場合、安楽死を肯定する票数(議席数)で上回ることが要求される。
以上3項目を考えたが、どれが良いかはわからない。