死の選択の権利を。 #国は安楽死を認めてください ツイデモにて

ツイデモ #国は安楽死を認めて下さい について、個人の見解を記します。

『ブレイブ救命士』モデルを想定して死の選択を実行する方法を検証する

死の選択を実行する方法が確実かどうか、救急救命医療に対してどれぐらい抵抗しうるかを検証する方法を思いついた。

まず、架空の『ブレイブ救命士』を想定する。

想定:

 彼は身体的に屈強であり勇敢であり善意の人である。そして徹底的な生存至上主義者である。

 彼は、目の前にまだ死んでいないが放置するとおそらく死に至るであろう人間と、法律で定められた救急救命医療を中止させる(死の権利を認める)可能性のある書類やカードが掲示してあれば、たとえ自分が懲役刑を頂戴することになろうと、無視、隠蔽、あるいは破壊する(彼は思考のためのモデルであり動機は設定されていない)。そして彼は自らの職務、すなわち救急救命医療を迅速かつ的確に行う。

 彼は、死の選択に用いられるための器具らしきものを発見すると速やかに近づき、そうであると彼自身の中で判断した場合速やかに徹底的な破壊を試みる(彼は思考のためのモデルであり動機は設定されていない)。彼が賠償に応じるかどうかは彼が思考のためのモデルであるため設定されていない。

:想定は以上

 

死の選択を実行する方法は思考のためのモデルであるブレイブ救命士による活動にたいして何らかの抵抗が出来なければならない。

・速度。取り返しのつかない地点まで到達することが早ければブレイブ救命士による活動はそれだけ失敗に終わる可能性が高くなる。

・隠蔽。ブレイブ救命士が知らない間に実行が完了されれば、彼には何も出来ない。

 

ブレイブ救命士はあくまでも思考のためのモデルであり、また現段階では思いつきにすぎない。彼の行動は極端であり現実的ではない。現実の大半の救急救命士は法的拘束力には従うであろう。彼は最悪想定のための架空のモデルである

それでもブレイブ救命士モデルによる思考上のテストは、確実性を検証する上である程度の助けにはなるであろう。

Twitterの『トレンド入り』とは何なのか

ツイデモにおいて、目的は耳目を集めることである。その有力な方法は『トレンド』入りすることである。

だが、Twitterのトレンドは明確な基準があるのだろうか(ここでは順位らしきものがつけられている方について考える)。地域、言語、国籍、年齢、性別によって操作されている可能性が高く、なおかつTwitter運営によって操作可能である(イーロン・マスク以前のTwitterJPにおいて操作されていた実績がある)。

現TwitterJPが特定思想にバイアスをかけているとはあまり思えないが、安楽死関係のハッシュタグ・ワードをトレンドから除外するのはマネタイズの観点から起こり得る。

Twitter営利企業なので、サービスの一つであるトレンドのアルゴリズムを公開する義務はない。

さて、どうしたものか。

サルコの野外使用への懸念

サルコを野外で使用する場合、『善意』の第三者が『救急通報』をして、『救命医療』担当者が措置をし、サルコの使用に失敗することが予想できる。

自分の土地もしくは近くの土地での経済的損失を嫌う者と、飯の種とする者がタッグを組んでやってきて妨害するわけだ。

救命医療は、おそらくいかなる宣言によっても拒否できないので(名称不明のまま救命医療を施す場合が多く、宣言があっても『見なかったこと』にするケースが予想される。飯の種だからだ)、サルコは室内で使用するべきだろう

自殺防止コールセンターの存在意義とは?

いのちの電話」などの「自殺防止コールセンター」が、行政によって存在するらしい。

ただ話を聞いてくれるだけで、行政(福祉)サービスや医療サービスに接続するものではないようである。聞いた話であり、本当はどうか知らない

 

しかし、もしそのような存在であれば、その存在意義がわからない。行政がコストを割いて存続させるべきものでもないだろう。

なんのためにこれらが存在するのだろうか

認知症医療と死の選択の権利

認知症の人の医療について考えることはおぞましい(?)。

その人に関わる医療スタッフとしても、家族としても、本人としても。

しかし認知症は遅かれ早かれ訪れるものなのだろう。

自らが認知症となって、家族や医療スタッフに余計な世話をかけさせる前に、死の選択の権利を行使して、その心配がないようにする選択肢は必要ではないか。

死生観のアップデート

環境に応じて観念はアップデートされなければならない。

医療技術(延命技術)の進歩に従って死生観はアップデートされなければならない。

従来の『生きているだけで丸儲け』という死生観を捨て、『死の選択の権利』を認める死生観にアップデートされなければならない。

可能なら生き続けることも可能だが、いつ・だれが、死を選ぶことも自由、そんな時代になる必要がある。

救命医療について

救命医療について考えてみる。救命医療とはつまり生存の強制である。

自死志願での行為であろうと、事前に何らかの意思表示をしていようと、彼らはお構いなしに生存を強制する。

救命医療の性質と彼らの組織への金銭的投入から、故意に明示された意思表示を無視したり、意思表示の照会を故意に怠ったりすることが用意に想像できる。

自死志願者にとって彼らは敵であり、そのまま放置されれば完遂できるプロセスを妨害し、苦痛を伴う生存、後遺症を残そうとする存在である。

彼らの介入のない死の選択が可能であることが望ましい。